宮沢りえと貴乃花の破局原因はりえママ!?不倫相手だったビートたけしの言葉に涙が止まらない…
宮沢りえといえば、日本を代表する国民的女優。
順風満帆のように見える彼女の人生には、消せない過去があるといいます。
婚約発表をしたと思えば、早々に破局。
大物芸能人との度重なる枕営業と不倫騒動。
自サツ未遂に摂食障害。
自称実業家の無職の男と結婚後、離婚。
そしてシングルマザーとなった宮沢りえが2018年3月16日、V6の森田剛と結婚を発表しました。
激動の人生を語るのに、必要不可欠の人間の存在…
それは貴乃花・ビートたけし、そして宮沢りえの実の母である宮沢光子(通称・りえママ)です。
今回はこの3人のキーパーソンとの複雑すぎる関係性を伝えると共に、宮沢りえの壮絶な人生を振り返ってみたいと思います。
まずは宮沢りえの婚約者であった貴乃花との婚約破棄の真相について。
宮沢りえは婚約発表しながらも、何故、破局してしまったのでしょうか?
目次
宮沢りえのプロフィール
生年月日:1973年4月6日
星座:おひつじ座
出身地:東京都練馬区
血液型:B型
身長:167cm
所属:芸能事務所エムツー企画
日本人の母親とオランダ人の父親を持つハーフ。11歳でモデルデビュー。
雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルとなる。
1987年、CM『三井のリハウス』の初代リハウスガール“白鳥麗子”役を務める。
数々のドラマに出演し、宮沢りえは一気に芸能界で名が立つことに!
そして人気絶頂期に『ふんどしカレンダー』、
ヘアヌード写真集『Santa Fe』などで話題を集める。
またマネージャーを務めていた母親・りえママの存在が注目された。
婚約解消、交際報道、拒食症、激やせなど…
芸能マスコミからのバッシング報道が相次いだことで一時期は芸能活動休止状態となるが、徐々に芸能活動を再開。
2002年、映画『たそがれ清兵衛』以降、高い演技力が評価され本格派女優として活躍している。
人気絶頂の宮沢りえに婚約者!?その相手は…
1990年代初頭には絶大な人気を誇っていたアイドル、宮沢りえ。
1992年に貴乃花と電撃婚約会見を行ったわけですが、
当時の貴乃花は破竹の連勝街道を驀進し、初優勝をしたばかり。
兄の若乃花と供に一躍、相撲界のスーパースターに踊りだしていた頃。
時の人となっていた宮沢りえと貴乃花が婚約をするということで、
こぞってマスコミはその幸せそうな2人を取り上げて、連日の様に報道していました。
ところが婚約会見を行った2か月後に、何と二人は破局!
一転して宮沢りえと貴乃花の幸せそうな表情は曇り、マスコミを避けるようになっていきました。
そんな宮沢りえと貴乃花の破局した原因は、
当時は誰にも明かされることはありませんでした。
しかし長い時を経て現在、その真相が明るみになったようです。
宮沢りえと貴乃花の破局原因の真相はりえママの存在にあった!
実は宮沢りえと貴乃花の破局した原因を知っているものは、意外な人物でした。
それは美川憲一。
美川憲一は、
実は宮沢りえの母親である『りえママ』こと宮沢光子と非常に懇意な仲であったといいます。
▼コチラが宮沢りえの母、宮沢光子さんの画像
(左/宮沢光子 右/宮沢りえ)
2014年に宮沢りえの母親である光子が亡くなり話題にあがったときに、
美川憲一は当時、宮沢りえと貴乃花の破局した原因の真相を告白しています。
それによると、
光子は美川憲一に宮沢りえと貴乃花に結婚をやめさせるように頼んでいたというもの。
人気者同士であり、
相思相愛の2人の幸せを良く思わなかった真相は非常に深いですよね…
宮沢りえは当時19歳で、アイドルや女優として伸び盛り。
かたや貴乃花は20歳という若き天才力士。
しかし結婚するとなれば、
宮沢りえは相撲部屋の女将にならなければいけないのは明白。
光子は相撲部屋の女将になった後が、
どれだけ大変なことかを知り、
将来のある宮沢りえを案じて破局するように動いたのです。
相撲部屋の女将と華々しい女優のどちらをとるのかといえば、答えは明らかですよね。
しかし、恋に浮かれている宮沢りえや貴乃花にそんな声は届くわけもない…
そこで光子は外部の力を借りて、
破局させたということが真相のようです。
実際に美川憲一は頼まれただけで、
それを行ったと言うことではないらしいですが…
宮沢りえの母の壮絶な最期とは?
宮沢りえと貴乃花の破局の原因をつくったのが、
母親の光子であるという真相は判明しましたが…
そもそも一体、どんな人物だったのでしょうか?
光子は、保険の外交員の他、
銀座のクラブでホステスをし、二足の草鞋を履いて生きていました。
そんな時にクラブで知り合ったオランダ人の男性と関係を持ち、宮沢りえを産み、両親に彼女を預けて単身、オランダの夫家族を頼って出国。
宮沢りえというと、日本でタクシー運転手をする祖父の元で、いとこの男の子とともに兄妹の様にして育ちました。
ですが、光子は夫との家族との関係が劣悪なものになり、離婚して帰国。
その後は宮沢りえを両親から引き取って、
東京・練馬区のアパートに2人で暮らし始めました。
宮沢りえは幼少の頃から非常に可愛かった為に、
母親の知人がモデルになることをすすめて、芸能界入りさせたのです。
宮沢りえの母親は昔、
ホステスをしていた時の経験なども生かして、
芸能界の幹部たちが通う店などに足繁く通い、
芸能事務所でも非常に強い力を持つプロダクションとも人脈を持ちました。
宮沢りえがブレイクしたあとは、独断で宮沢りえと供に独立を決意!
自身はプロデューサーとして、
宮沢りえを大人気アイドルから女優としてのし上げていきました。
しかし、宮沢りえと貴乃花の破局の裏では、母親の光子が動いていたという真相が、関係者たちの中で発覚。
そんな“話題づくり”に長けたりえママでしたが、そのプロデュースは恋愛にまで及んだというのです。
19歳のりえが貴乃花(当時、貴花田)と婚約を発表したのも「りえママ戦略の一環」といわれています。
しかし婚約破棄後のスキャンダルにも、りえママの影がつきまとっていました。
その最たる例が、ビートたけしとの不倫疑惑です。
宮沢りえの不倫相手はビートたけしだった!
当時、宮沢りえはCMや映画でビートたけしと度々共演をしていました。
また1992年に宮沢りえが発表したシングル「心から好き」の作詞をビートたけしが務めたほど!
このように一見偶然のように見える共演には裏が隠されていたといいます。
年齢も離れた、意外な組み合わせだっただけに、
これもりえママが仕掛けた単なる話題性を狙った作戦だと世間すらも気付いていました。
しかし、光子さんは本気だったようです。
というのも、りえママは自身のエッセイで、2人になんと「早く肉体関係を持て!」と急かしていたというのです!
その驚くべき発言は、
1993年に光子が雑誌「DENIM」(小学館、廃刊)に連載していたエッセイで綴られています。
まず、光子は次のように宣言。
〈もう誰もが知っていることだけど、りえの現在の恋人はたけし氏だ。
一応、彼女は相当にお熱で、たけし氏もりえのことが好きみたいで、だからつきあっている〉
ちなみに、当時すでにビートたけしは既婚者であり、子ももうけている身であることは誰もが知っていました。
「つきあっている」と書くことは、2人は不倫関係にあると母親が公言しているということ。
現代でも芸能人の不倫騒動が度々ニュースになっていますが、親が娘の不倫を暴露するなんて前代未聞ですよね。
これだけでも充分インパクトは大きいのですが、
りえママはさらに次のようにつづけ、2人の『不倫』にダメ出し。
〈けれども私から見れば、2人はまるでオママゴトみたいな恋愛ごっこで歯がゆいばかり〉
〈聞けば、たけし氏とりえはキスさえもまだみたいなのだ。男と女が好き合って、それがキスやセッ○スというカタチで求め合うのであれば、それは当然の行為で自然の営みだと私は思う。逆に、そうしないほうが異常なんじゃないのかしら〉
そして、〈何もないというのは不自然〉と言い切り、
最後には〈2人でさっさとすませてしまえばいいのにと思っている〉といい放ったのです。
不倫を公認し、20歳になったばかりの娘にさっさとセッ○スすべきと諭す母親…異常としか思えない親子の関係性が露呈されました。
またこんな衝撃的なエピソードも・・・
ある撮影でビートたけしが宿泊していたホテルの部屋に宮沢りえが「ママに言われてきた」とやってきて、ビビったビートたけしがそれを追い返したという話が存在します。
実際に不倫関係になったという噂も語られていますが、光子のエッセイを読む限り、あながち嘘とは思えない話ですよね…
ビートたけしがりえママを批判!その理由とは…
六本木でホステスをしていたりえママは、
産み落とした宮沢りえを残して単身オランダに渡り、宮沢りえさんはタクシー運転手だった祖父の男の子と一緒に兄弟のように育てられました。
宮沢りえ自身もその時が人生で一番幸せな時期だったと語ります。
オランダの家族との折り合いが悪くなったという理由で、光子は離婚して帰国、置き去りにしていった宮沢りえを引き取ります。
その後、宮沢りえの芸能界でスターにさせるべく、ステージママとして自身の娘をプロデュースし続けたりえママ。
そして宮沢りえが17歳の時に撮影したといわれる篠山紀信氏によるヘアヌード写真集『Santa Fe』(サンタフェ)は、150万部のベストセラーに!
当時、ビートたけしは「娘をヌードにさせないのが親なのに考えられない」と毒づいたほどでした。
自分の都合で娘を置き去りにしたり、
引き取ったりすることが平気でできるような母親。
しまいには、
宮沢りえさんに枕営業をやらせたり、
ヘアヌード写真集を出させたりと、
あまりにも身勝手すぎる行動にビートたけしもバッシングをしたのです。
宮沢りえに虜にされたビートたけし
確かにサンタフェの写真集を見ても、宮沢りえは容姿端麗ですよね。
そこはやっぱりオランダ人と日本人のハーフだからというのもあるかもしれません。
昔とあるバラエティー番組で、「これまでで一番綺麗と思った芸能人は?」という問題が出されました。
解答席に座っていたそのまんま東がフリップに「痩せる前のりえちゃん」と書いて出していました。
その理由については音消しが入ったために、具体的な事は放送されませんでしたが、
どうやらビートたけしとの関係について触れていたらしく、ビートたけしが宮沢りえの体を指して「めちゃくちゃ綺麗だった」と言っていたそうです。
出典:http://rie-miyazawa-marisol.blog.so-net.ne.jp
宮沢りえの枕営業を断ったと噂されるビートたけし。
その後も関係が続いていたかどうかはわかりませんが…
宮沢りえの体が綺麗なのは、
何もビートたけしさんじゃなくても、写真集を見ればわかりますしね。
また、デビュー当時から現在までの宮沢りえとビートたけしの関係は良好のようです。
それはきっと、
ビートたけしさんが宮沢りえさんのことを
デビュー当時からよく知っていて、
りえママの元で苦労してきたことなども見てきているからなのではないでしょうか。
大女優に成長した宮沢りえを前にいきなり壇上で
「ぜひオイラの映画で主演してもらってだね。
りえちゃんのパワーで、売れない映画を売れるようにしてほしいんだけど」
と“営業活動”まで飛び出したほど!
ビートたけしは、あまり公に出演要請したがらないだけに、宮沢りえ本人も仰天。
宮沢りえの生き様を知るビートたけしは、
「りえ坊は不幸な子だったからね。相手は誰でもいいから、幸せになれりゃね」と過去に語っています。
長年の付き合いだからこそビートたけしさんの優しさをよく知っている宮沢りえは、この映画の出演要請にも「ぜひお願いします」と“快諾”しました。
そしてビートたけしとの不倫騒動の次に報道された人物が…この後に宮沢りえの大転落が待っていました。
摂食障害、自サツ未遂!大転落後に結婚するも相手は無職の男だった【画像】
そしてビートたけしの次にりえママがターゲットに選んだのが、歌舞伎俳優の中村勘三郎(当時は勘九郞)でした。
宮沢りえは1994年に勘三郎と京都のホテルで不倫密会の上、自サツ未遂騒動を起こし、またしても世間を騒がせました。
しかしこの勘九郞との交際も、りえママ公認のものだったといいます。
その後、宮沢りえは拒食症などの心神耗弱状態に陥り、母娘同士の確執がある中で長年過ごすことになります。
2009年には宮沢りえは元プロサーファーの実業家と結婚しますが、実はそれは表向きの顔でした。
実際には何も収入源がない無職の男だったのです!
▼宮沢りえと結婚した中津ひろゆきさんの画像
この時の結婚にも母親の光子は大反対!
わざわざ当時住んでいたパリから日本に飛んできて、結婚を反対しにきたというほどだったといいます。
しかし、今回は母親の言いなりにはならないと、宮沢りえは結婚に踏み切りました。
ですが、結局は2016年3月に離婚。
そして離婚前の2014年9月23日、
母親の光子は肝臓がんでこの世を去りました。
毒親りえママの死去。宮沢りえが最期に感じた複雑すぎる想い…
母親の最期を看取った宮沢りえは、
その時の様子をテレビ番組に出演した際に語っています。
「治療をしないと決めたときに私は満足だった。
無駄な延命(治療)をしないと決めて過ごしていたけど、母の部屋から桜が見えるんですね。
母が『来年もこの桜が見たい』って言って。
初めて生に対しての執着を感じた」
と母親の忘れられない言葉を明かしました。
それを聞いた笑福亭鶴瓶は、
「安心させたかったんだと思う。みっちゃんはそういう人やで。“大丈夫、来年も生きている”って(言いたかったのだろう)」とフォローしました。
そして、りえママの最期を看取った時の話も・・・
「ウチの母はがんだったんだけど、死に様はすごいその人が出るものだって。死ぬ瞬間やその人がしゃべった言葉が忘れられない」
「息を引き取る瞬間も一緒にいられた。壮絶だった。息を吸って吐けることがすごいことなんだと教えてくれたし、命に限りがあると告げられた人に誠実さを欠いちゃいけない。すごいモデルがいたから」
と親の死に目に立ち会ったことで、教えられたことがあると語りました。
自分の好きな人との結婚には、最後まで反対した母親。
その時の宮沢りえの心境は、非常に感慨深いものであったと思います。
宮沢りえと森田剛が結婚!しかし心配の声が…
そして2018年3月16日、宮沢りえと森田剛が結婚を発表しました。
2016年3月、長い離婚協議の末、正式に離婚を発表してから約2年後の再婚。
元旦那である中津ひろゆきさんとの間に生まれた娘を持つ、シングルマザーだった宮沢りえ。
何度か森田剛とのデート姿を週刊誌に撮られていたこともあり、結婚の噂も立っていたことから、みなさんも驚きは少なかったかもしれません。
しかし、あまり良い噂を聞かない森田剛が相手ということもあり、宮沢りえへの心配の声も囁かれているのも事実のようです。
その声の中に、あのビートたけしも…
ビートたけしの嘆きの声「なんで森田剛なんだ……」
ビートたけしが、ここ10年の間に巷を騒がせた女性たちをメッタ斬りにしているエッセイ集『ビートたけしのオンナ論』(小社刊)が発売されました。
同書では、有名女優や女性政治家たちをお馴染みのたけし節で批評するほか、
自身の身近にいた女性タレントたちへのエールとも苦言とも取れる言葉も収められています。
中でも、小さい頃から知っているという宮沢りえに対する思いはアツいようで…
以下に同書「女優というオンナ」のパートから、一部を抜粋します。
宮沢りえ、幸せになってほしいのに
個人的に小さいころから知ってる宮沢りえちゃんのことは気になる。
最近は仕事の面ではすごくよくて、女優としての宮沢りえができ上がりつつある。
天海祐希が降板した舞台(『おのれナポレオン』2013年)に急きょ出たことがあったろ。
1日くらいでセリフを全部覚えたんだからすごいよ。
映画『紙の月』(2014年公開)もよかった。アイドルから見事に役者に成長した。
もう昔の宮沢りえじゃない。
なかなか、あそこまではなれないよ。
かなり努力したんだろう。
昔のハリウッドなんか、女優は容姿じゃなくて演技がうまいか下手かで判断されてたけど、いまの日本は演技がうまけりゃブスだし、かわいいと下手(笑)。
そんな時代が続いてるから、りえちゃんみたいなのが出てくれば、少しは日本の女優界もよくなるんじゃないのかな。
なんで森田剛なんだ……
離婚して、りえママも亡くなって、仕事を頑張ってると思ってたら、今度の男は森田剛ってか。
なんでタトゥーだらけという疑惑がある森田剛なんだよ。
かわいそうだから、あんまり悪口は言いたくないけどな。
おっかさんの影響が強くて、そこから抜け出すのが大変だったからか、りえちゃんは男を見る目も少し違うのかな。
最初はハワイの自称実業家だっていうサーファーに引っ掛かって、できちゃった婚して(2009年)、すぐ離婚した(2012年に離婚協議中と発表し、2016年に正式に離婚)。
本当に普通の実業家だったらニューヨークとかロンドンに住むだろ?
ハワイにあるような会社ってたいしたことないじゃん、遊んでるヤツばっかじゃん、って思ってたら、やっぱりうまくいかなかったな。
その次がなんで森田剛なんだよって思うけど、いろいろ大変なことがあった子だから、とにかく幸せになってもらいたいんだ。
(文=ビートたけし)
宮沢りえの苦難の人生を近くで見てきたビートたけしは、2人の結婚に心配の声をあげていました。
本人が幸せならいい…けれど、もしかしたら宮沢りえは母親に縛られ続けた人生によって、彼女の男性への求めるモノを歪ませてしまったのかもしれません。
過干渉の母親からの脱皮が、ダメな男を引き寄せてしまったのか…
不幸か幸せかは、本人の感じたものが全てですから、外野の人間にはわからないこともあるでしょう。
しかしながら、ビートたけしの言葉に、妙に納得をしてしまうのは事実。
この2人を本当の意味で祝福できるには、少し時間がかかるのかもしれません。
その時が来ることを祈るばかりです。
おわりに・・・
今回、宮沢りえについて調べてみると、
宮沢りえと貴乃花の婚約破棄の真相から始まり、様々な宮沢りえのスキャンダルには常に、母親の光子(りえママ)が絡んでいたことがわかりました。
母親の気持ちとしては、
『絶対に将来が自分にとってもりえにとっても良いという男性でない限り、人生を大きく左右する結婚には承諾できない』
というのも、母親ならではの気持ちなのでしょう。
しかし、一方では、
・自分の娘を脱がせた母親
・娘を操り人形にしている
このような揶揄があったのもまた事実。
良い母親、悪い母親という判断は
個々の人間によってわかれるところでもありますが…
何はともあれ宮沢りえがブレイクし現在も、
生き残っている女優にしたのは母親の存在があったことには間違いないでしょう。
貴乃花にビートたけし、そして勘三郎──
りえママが業界の大物に目をつけ、話題づくりのために宮沢りえと交際させました。
当時のマスコミは、こんなふうに宮沢りえのスキャンダルを報じていましたが、
『すべては、りえママの戦略なのだ』と・・・
しかしながら話題づくりというには、りえママの行動はあまりにも過激すぎる。
むしろ、りえママは話題づくりよりも、娘に自分の“願望”を託していたようにも思えてしまう。
自分の理想を娘に押しつけ、あらゆることに口を挟んでくる母親。
そして、自分の思い通りにならないと、母は娘を強く叱りつけるのです。
実際、りえの場合は自殺未遂騒動のころにハーフのモデルと“無断交際”をしており、それを知った光子は、宮沢りえを「烈火のごとく叱り飛ばし、平手打ち」したという(小学館「女性セブン」95年10月5日号)。
娘が選んだ相手との恋愛は決して許さず、
たとえ不倫であっても自分の選んだ男性との交際にこだわった母親。
りえママが宮沢りえとビートたけしとのセッ○スに異常に固執し、勘三郎との関係を後押しした理由。
それは芸能界でセンセーショナルな存在として話題を振りまきたい、
大物とのつながりをもちたいなどの計算ももちろんあったでしょうが、
それ以上にりえママ自身が彼らのことを”好き”だったのかもしれません。
そう、一連の宮沢りえのスキャンダルは、
自分の欲望を娘に託した毒親的行動によって引き起こされていたのです。
そしてその呪縛から解き放たれたからこそ、
さまざまなスキャンダルや苦難を乗り越え、宮沢りえは女優として再起できたのでしょう。
「私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います」
──母子2人の歩みをこうして振り返ると、
母の最期にコメントした宮沢りえのこの言葉は、心に力強く響き、彼女の幸せを願わずにはいられないのです。
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